ボランティアは偽善であるという批判が的外れである理由


Bridge for Children, KGU代表の長嶋宙です。

「ボランティアは偽善なのではないか」や「ただの自己満足だ」というありふれたコメントに対しての考えを書きます。

自分の回答は「ボランティアもヤンキーも本質的に変わらないのでボランティアを過度に持ち上げる必要も貶す必要もない」です。

【ボランティアとヤンキーの共通点】
デール・カーネギーは『人を動かす』の中で、人間を自己有用感追求の主体であると定義しました。有用感とは、簡潔に言うと「自らの重要性を実感する」ということであり、人間が行うすべての行動は、有用感を満たすという目的に帰結するというのがカーネギーの論です。
他人の有用感を刺激することで対象を動かす、というのがこの本の大筋の内容になります。
カーネギーは「有用感を得るために人は勉強をし、高い服を買い、高い車に乗り、大きな家を建て、少年は非行に走る。」「貧民のために病院を建てるものもいれば、強盗や殺人に走る者もいる。」と世間一般に善行とされるものも悪行とされるものもその根底にあるものは同じであると述べています。
この考えを採用すると、ボランティアもヤンキーもただ満足感を得るために行動しているだけなので両者に大きな違いはありません。唯一の違いは各人の行動によって他者が喜ぶかどうか(利を得るかどうか)で、それが世間の評価を二分しているのではないかと思います(これについては次項で詳しく述べます)。
ボランティアもヤンキーも違うのは結果だけで「満足感を得るために何らかの行動をしているという点」は何も変わらないということ頭に置いておいてください。

【橘木・ティロール・小島の再分配論】
ここで経済学の再分配について触れます。
再分配政策とは、税金という形で高所得者から富を回収しそれを社会保障等の形で低所得者に提供することで格差を是正しようという政策のことです。
直感的な再分配論では、努力で獲得した富は取り上げず、偶然手にした富のみを取り上げて社会に分配するのがベストでしょう。
なぜなら前者を取り上げると高所得者は努力する意欲を失うからです。これでは経済のパイの拡大が阻害されるので適切ではありません。
しかし問題は努力で得た富と偶然得た富とを見分けるのが不可能であることです。

よって現実の社会では様々な考え方が見られます。
例えば福祉国家と呼ばれる国では高程度・高負担の社会保障制度が整備されているので、高所得者の富の多くは偶然手にしたものと考えられているのでしょう。反対に自己責任論が根強いアメリカでは富の多くは努力の結果であると考えられているでしょう。

再分配論については橘木俊詔『「幸せ」の経済学』やジャン・ティロール『良き社会のための経済学』で深く触れられているのでそちらをご参照ください。

ちなみに日本は中程度・低負担の国であると、先日拝聴した放送大学の授業では述べられていました。ただ、橘木によると国民性的にはアメリカに近いものがあるそうです。確かに日本の生活保護受給者などへの風当たりは必要以上に強いように感じます。これは自己責任論の現れではないでしょうか。

話を戻します。
ここで、「富」に「世間からの評価」を代入し、ボランティアとヤンキーに応用します。
善行を好むのか非行を好むのかは生まれつきの性質、または育った環境からの影響が大きいと考えられるため、そこから得られた結果(=世間からの評価)は再分配すべきであると結論づけることができます。
社会的評判を再分配するというのは現実的には不可能なので、現実では同等に評価するということに落ち着くと思います。

次に小島寛之の論を紹介します。
小島は無差別曲線の存在を否定し、無差別曲線を一切使わないミクロ経済学の教科書を出版した経済学者です。
それはそれとして別に興味深い論を展開していたので紹介します。

それは「自分が今富んでいる理由の全ては自分の実力ではなく、一部はある種の過誤の帰結なので富裕層から貧困層への所得の移動は妥当であり、それは個人の最適化の自由意志によるものである」というものです。
これは小島寛之『確率的思考法』内で述べられていました。

平易に言うと、金持ちの成功の一部は実力ではなく幸運の結果である。つまり、人生のどこかで選択を誤っていたら貧乏になっていた可能性もあった(逆に貧乏人も不運のせいであり、金持ちになる可能性も十分あった)ということです。

小島曰く、金持ちは成功したことに対してある程度の罪悪感を感じているのであり、それを精算したいと考えているので貧困層への所得の移動は金持ちが自ら進んで行うものになります。
小島をマキシミン原理(その社会で最も貧しい人が豊かな社会が善い社会・ロールズの平等主義)の根拠の一つになるとしています。

これを社会的な評価に当てはめると、ボランティアをしている人はヤンキーが背負っている悪い評判に対して罪悪感を感じなければならずそれに対して保障をする義務がある、ということになります。

【利他的な人間と利他的な行動は違う】
一般的に自分の満足を追求することは利己的であると考えられています。この考えを採用すると、利己的な性格と利己的な行動、利他的な行動と利他的な人間は全く別の概念ということになります。

例えばカツアゲは利己的な行動、人助けは利他的な行動である、これは間違いないですが、利他的な行動をする人が利他的な性格であるかといえばそうではありません。
カーネギー曰く、善行も悪行も自己有用感の充足がモチベーションになるので、一般的な利己的・利他的の考え方を用いるとどちらも利己的な人間であると言えます。
また、本当に利他的な人とは、他者の利になる行為をするが、それにより対象の待遇が向上したとしても全く嬉しく思わない人となります。
つまり、ボランティアに参加はするがそれによって誰かが救われたり自分が感謝されたとしても全く嬉しくない人です。

現実で例をあげるなら社畜や奴隷でしょうか。
彼らはおそらく、自分は楽しくないのにその活動によって他者が利を得る人間です。
つまりここでいう利他的な人間です。

【結論】
ボランティアは特別なものでも尊いものでもありません。
人間は満足を得るために行動するものであり、ボランティアは運動や食事、ツイッターをするのと何ら変わりない「ただの行動」です。
よって、ボランティアを過度に持ち上げる必要も貶す必要もありません。「ボランティアをしていい気になってる」というのはボランティア嫌いの偏見であり、その批判は的外れ甚だしいのです。
他人に尽くすことで有用感を得られるラッキーな我々は、そのような声に惑わされず、またボランティアに参加しない他者を決して否定したり見下したりせず、その欲の赴くまま利己的に利他的な行動を続けましょう。

 

【出典】
デール・カーネギー『人を動かす』
橘木俊詔『「幸せ」の経済学』
ジャン・ティロール『良き社会のための経済学』
放送大学 公共政策('17)第8回講義『社会保障と税の一体改革』
小島寛之『確率的思考法』