美しさとは


外に1歩足を踏み出せば、汗ばむ季節となりました。予断を許さない日々が続きますがいかがお過ごしでしょうか。

今回のコラムはBridge for Children, KGU 2回の永田悠乃が担当致します。

 

「あの女優さん、俳優さん綺麗だな」

「あんな顔になりたかったな」

テレビやSNSを見ていて、誰もが1度はこんな風に思った経験があるのではないでしょうか。

私からは、「外見」についてお話をしたいと思います。

 

みなさんは「ルッキズム」という言葉をご存知でしょうか。ルッキズムとは外見至上主義、外見的な美醜によって他者を判断することを指します。端的に言うと、容姿が魅力的な人ほど優れている、他方そうでは無い人を劣っていると見なす一種のステレオタイプのことです。

 

ルッキズムに関する研究は多く、容姿は人の幸福度、生きやすさ、対人関係、キャリア形成にまで影響するとされています。

日常生活においては、一般的に整った容姿を持つとされる人は、他人からの、主に異性からの注目を集めやすく人間関係を構築しやすい傾向にあります。あるいは容姿の優れた人は雇用機会にも恵まれやすいといえるでしょう。例えば就職活動において、同じ程度の能力、学歴を有した2人の就活生がいたと仮定します。

後日、内定が決まったのは2人のうち一般的に容姿が整っているとされる方の人物でした。この場合、内定を貰った人物の方が面接官からの質問に対し、より企業が求める回答をした、あるいは当日の態度が優れていたと考えることもできるため、必ずしも企業側が顔の善し悪しで採用・不採用を判断したとは限りません。しかし、見た目の印象によって採用か不採用がを決定する、いわゆる「顔採用」が存在することも事実です。特に新卒採用では、過去の実績やキャリアがないため、最終的には見た目で判断せざるを得なくなります。さらに、容姿端麗であれば芸能界に入ってTV出演したり、美容・アパレル業界、その他顧客と接する機会が多いサービス業などで活躍したりと将来の選択肢を増やすことができるかもしれません。

このように、容姿が整っている人々ほど利益を受けやすい傾向にある、美しきものを美徳とする考え方は、私たち人間の中に非常に根強く存在し、ルッキズムを罪とみなすか否かという議論はあらゆる場でなされています。

 

先日、ルッキズムに関する記事を目にしたのでここで紹介しておきたいと思います。

それは、モデルの水原希子さんが自身のインスタグラムでルッキズムを彷彿とさせるような企画についての批判とルッキズムへの意見を投稿したことです。

事の発端は、インスタグラム上で、日本の女優やモデルの女性たちを投票形式でランク付けする「最も美しい顔ランキング2020」という企画に無許可で水原さんがノミネートされていたことでした。

水原さんはこれを受け、「知らず知らずのうちに自分がルッキズムを助長する一因になっている」、「偏った美の概念で人を判断すべきでない」とコメントし、ルッキズムは間違っていると指摘しました。

 

水原さんさんと同様に、見た目で人の善し悪しを決めるべきではない、こういった声は多く見受けられます。もちろん、私もその1人です。しかし、美しいものを好み、無意識のうちに優劣をつける、それは人間の本能であり、そこに悪意がなくとも、私たち人間はモノの美しさをはかるかのごとくそれを人の外見にも当てはめてしまうのです。その結果、社会では依然として「美しきものこそ善」というステレオタイプが浸透しています。

 

私は「ルッキズム」が社会から無くなることはないと思います。当然、これが正しい考え方だと言うつもりはありませんし、外見・内面・バックグラウンド、その人がもつ要素全てをもってその人がどういった人間なのかを見るべきだと考えます。しかし、ある意味人間の本能ともいえる価値観を払拭することは不可能に近いでしょう。

 

大切なのは、ルッキズムとどう上手く付き合っていくか、だと思います。

社会には、自分の人間性や能力を評価してくれる環境は沢山あります。人付き合いが上手いところ、ITに強いところ、何でも真面目に取り組めるところ、など、ひとつでも多く自分の強みを見つけそれを磨き続ければ、人は唯一無二の存在になることができます。そしてそれはきっと自分の自信に繋がっていくでしょう。自分に自信がある人、自分のことが好きだといえる人はとても美しいと私は思います。美徳の基準は人それぞれですが、このように考える人が1人でも多く増えれば、外見左右されない社会の実現に近づくことができるのではないでしょうか。

 

最後までお付き合い頂き、ありがとうございました🔅