”論争や討論の目的は勝利であってはならず、改革でなければならない” J.シューベル「パンセ」


“論争や討論の目的は勝利であってはならず、改革でなければならない”
J.シューベル「パンセ」
 
ご覧いただきありがとうございます。国際政策学科2年の長嶋宙です。
今回は”議論”についてコラムを書かせていただきます。
 
世の中には2種類の人間がいます。
「議論が好きな人間」と「議論が嫌いな人間」です。
しかし、議論が好きな人間は往々にして議論が得意ではありません。
正確には、彼らが好む議論は正しい議論ではありません。
また、「議論が嫌いな人間」が嫌う議論に対しても同様のことが言えます。
 
事あるごとに日本人は議論が苦手な人種であると言われます。
よく言われる理由は、控えめで同質性を重視する国民性を持つから、です。
日本人なら誰しもが議論の失敗の経験があると思います。
例えば学生時代の文化祭。出し物を決めるクラス会で誰も発言せずに中々決まらない、という経験をしていない人はいないでしょう。そして頭を抱えた学級委員は「5分間グループで話してください」とお決まりの指示を出すわけです。
 
この点において確かに日本人は議論が苦手と言えるかもしれません。
 
反対に欧米人は沈黙を嫌うと言います。沈黙を好む・嫌うについては言語的なコンテクストの高低が関係するので議論にはあまり関係ない気もするのですが、確かに欧米人は議論が得意なイメージがあります。
 
国民性と議論の関係も非常に興味深いのですが、本題から逸れるため今回はこれ以上触れないでおきます。
 
 
私が考える正しい議論の条件とは、「参加者全員が目的を見失うことなく進行される」です。
本コラムのタイトルであるジョセフ・ジューベルの言葉にあるように、議論の目的は常に改革(課題の解決)であるべきと考えます。
当然の話です。解決すべき課題があるから解決策を探るために議論が開かれるわけで、目的のない話し合いはただの対話に過ぎません。しかし、個人レベルに目を落とすと、この目的の逸脱は頻繁に見られます。
 
最もよく見られるのが、議論に勝敗があると考え持論の展開に躍起になるケースです。
議論はディベートではありません。(ディベートはあくまで客観的・批判的な視点や論理的な思考力、発言力を身に付けるためのトレーニングであり合意形成の手法ではありません。)解決すべき問題に対して自身の案が有効であると信じるのは良いことですが、それ以外の可能性を否定するような「この意見以外は一切認めない」という姿勢は適切ではありません。
SNS上では日々終わりの見えない議論が繰り広げられていますが、それらが不毛である要因としてもこれが挙げられます。双方が目的を見失い、持論を撤回する意思がない場合それはもはや議論とも呼べません。やり取りの果てに一方からの返信が途絶え、もう一方が勝利宣言をする光景は滑稽に思います。
 
他にも議論の質を下げてしまう要素はいくつか存在します。
 
1つ目は、論拠として自身の感情を用いること、いわゆる感情論の持ち出しです。
議論は最適解発掘の場であると同時に同意形成の場でもあります。この場において、感情という最も主観的な要素を持ち出すのは悪手と言わざるを得ません。
では一切の感情を議論から排除すべきかと言われるとそうではありません。「この案は不快に思う人も多いんじゃない?」という問題提起はとても貴重なものです。しかし、そこに根拠となるデータが必要であるという話です。「僕が嫌いだから」は根拠になり得ません。
 
2つ目は主張と発言者が紐付けられることです。「○○の意見だから正しい」というケースはこれに当てはまります。発言者を根拠に意見の強弱を判断するのは不当であると誰もがわかっているはずなのですが、「あの政治家は不祥事を起こしたから信用しない」は正当だと思われがちです。
「反○○」と書かれたプラカードをもって現政権に対してデモを行う集団がいますが、首相の決定全てに反対している人々は、人を見て論を見ていないと感じます。
 
しかし、前述のような状態に陥ってしまう気持ちもよくわかります。良くないことだとわかっていても、自分の意見が否定されたらイラッとするし苦手な人間の提案を受け入れるのに抵抗がある時もあります。
 
では、どのようにしたら正しい議論を行えるのか。
 
簡単な方法があります。
 
それは「ホワイトボードを用い、かつ全員がペンを持つこと」です。
 
もう少し具体的に言うと、全員が起立しペンを持ち、ホワイトボードの前に立って議論を行います。この時ホワイトボードにはあらかじめ議論の目的を記入しておき、自分の発言は自らでホワイトボードに記入していきます。
そして、参加者は「できる限りホワイトボードから目を離さない」を心掛けましょう。
 
この手法を取るメリットとしては以下が挙げられます。
 
①人格と意見を切り離すことができる
意見をボードに記入するというプロセスを通して、意見は発言者の手を離れ「場のもの」になります。それによって自分の意見を客観的に見ることと、他参加者の意見と平等に扱うことができます。もし記入後に、「やっぱり間違っていたな」と思ったら自分の意見(厳密には元・自分の意見/現・場の意見)に対して反論することも認められます。これに対して他の参加者が「さっきと言ってることが違う!」と指摘するのはナンセンスです。
 
②目的を見失わない
この手法において参加者は全員ホワイトボードに相対しながら議論を行うことになります。それによって向かい合わせで議論する場合と比べて、「議論の目的は改革」を見失い辛くなります。
議論においてAという参加者とBという参加者が異なる意見を出したとして、果たしてAとBは敵同士なのでしょうか?
答えは否です。
参加者が同じ方向(その先にはホワイトボード。そこには議論の目的が書いてある。)を向くことで自分達は敵ではない、むしろ同じ目的の達成を目指す同志であることを強く意識付けることができます。
よって、向かい合わせで議論する場合と比べて「A vs B」の構造が生まれ辛く、「A&B vs課題」を保つことができるのです。
 
③理性的な判断が可能になる
参加者の視線をホワイトボードに集めることで参加者同士のアイコンタクトが減少します。「目を見て話さないと熱意が伝わらない!」と思われるかも知れませんが、そもそも熱意は必要ありません。必要なのは論理のみです。そして論理はすべてホワイトボード上にあります。議論の際には否が応でも論理で話す環境を作り上げましょう。
また、「目を見て話さないと考えが伝わりづらい」というのはとても理解できますが、そのためのホワイトボードでもあります。まずは目の前にある真っ白なツールを最大限活用して、本当に必要と感じたときのみアイコンタクトを取るようにしましょう。
 
④議論が活発になる
1枚のホワイトボードの前に参加者が集まるとちょっとした人混みになります。
この近い距離間で発言することのハードルは、広い会議室で机を挟んで発言することと比べ大幅に低くなります。また議論が盛り上がると思考→発言の間隔が短くなり、頭で考えすぎていない革新的な意見が出やすくなります。
Art&Fearという本に出てくる陶芸のエピソードのように、考えた時間とアイデアの質は必ずしも相関しません。むしろ反射的に発したアイデアこそが現状を打開する鍵になる可能性を秘めていることも多いのです。
(Art & Fear 「質より量に学ぶ」 https://kzr-2.hatenadiary.org/entry/20080808/p1)
 
以上、私がお薦めする正しい議論を行うための手法です。
 
繰り返しますが、日本人が議論下手と言われる要因として控えめな国民性が挙げられます。
そしてその根底には、「和」を重視し、争いを避けようとする日本人の本能があります。
 
しかし、それはそれとして議論の持つ価値をもっと認識するべきです。
そもそも議論は争いを生むものでは決してありません。
共通の課題に対して対等な立場で異なる価値観を持つ人間が発案し、より質の高い答えを探る非常に紳士的な活動です。
むしろ争いを避けるために積極的に意見交換の場を設けましょう。
 
これを機に皆様が素敵な議論ライフを送られることを願ってやみません。
お読みいただきありがとうございました!